千住大橋    形式:鋼タイドアーチ橋  

橋長:91.6m  橋幅:24.2m  架設年次:昭和2年(1927)12月

家康は江戸防衛の目的から江戸周囲の川に橋を架けさせなかったが、千住大橋だけは例外で、入府後四年目の文禄3(1594)年に架けさせている。

それ以後この橋は奥州道中の起点となった。

隅田川最初の橋であり、現在地より200メートルほど上流にありました。

徳川時代を通じて6回架け替えが行われ、明和4年(1767)の架け替えの際にほぼ現在地に移されました。明治18年の洪水の際に流失し、太鼓橋様式の木橋として再建されましたが、関東大震災の際に消失しました。

現在の橋は、昭和2年に、震災復興橋梁の一つとして架橋されました。タイドアーチ橋としては、日本でもっとも旧いものとされています。

芭蕉が奥州へ旅立った際は、この橋を渡ることはなく、深川から船で大川を遡り、橋北詰の船着場から千住宿に上ったと、奥の細道にもある。

昭和3年~昭和43年の間は中央に都電(東京市電)が走っていました

 

水神大橋

橋長:157.0m、最大支間:102.0m、幅員:17.0m 着工:昭和59年(1984年)

 竣工:平成元年(1989年)3月 事業主体:東京都

1989(平成元)年3月に建造された比較的新しい橋。 その名は東岸の隅田川神社に由来します。

東岸の東白鬚公園と西岸の汐入公園は都の防災拠点。 双方を結ぶために架橋されました。 青いアーチと橋桁に白い高欄がマッチした美しい橋です。

水神大橋(すいじんおおはし)は、隅田川にかかる東京都道461号吾妻橋伊興町線支線の橋。西岸は荒川区南千住八丁目、東岸は墨田区堤通二丁目。

橋名は東岸にある「隅田川神社(水神宮)」に因む。

 橋の組み立てを陸上で行い、橋桁を台船に乗せて干満の差を利用して橋脚に乗せるという方法を採用した。

 付近の汐入公園、東白鬚公園は東京都の防災拠点として位置づけられており、そのため双方を繋ぐ連絡橋として千住汐入大橋と共に計画された。当初は歩行者専用橋で、接続する道路の整備が完了した1996年(平成8年)7月10日より自動車道路供用が開始された。

 首都高速6号向島線堤通出入口に接続する。もともと「水神の渡し」という渡船場があった場所でもある。

 

 

白鬚橋  

東京都荒川区、台東区・墨田区の間を流れる隅田川に架る歴史ある橋が白鬚橋。

明治通りと通称される東京都道306号(王子千住夢の島線)の橋で、橋名は東岸の白鬚大明神(現・白鬚神社/墨田区東向島)に由来します。

つまり、「ひげ」は、髭(あごひげ)。初代の橋は、大正3年に地元有志が白鬚橋株式会社を設立し、架橋した木橋(有料橋)でした、

現在の橋長167.63m、幅24.14mのバランストタイドアーチ橋は、関東大震災後の震災復興事業で昭和6年8月8日に竣工した2代目、設計は、景観を考えて美しい橋を築いた増田淳(ますだじゅん)で、設計・架橋時には鉄道併用橋として架けられています。

「二三町にして白鬚橋の袂に至る。其形永代橋に似たる鉄橋なり、橋をわたりて橋場の岸に至るに、物揚場の鉄骨のかげに真崎稲荷の石灯籠と石浜神社の鳥居の立ちたるさま見るも哀れなり」

永井荷風は、鋭い視点で、「永代橋に似たる鉄橋」と記していますが、ともに美しいフォルムのバランストタイドアーチ橋です。

白鬚橋のほうが軽やかな感じの仕上がりなのは、帝都復興事業のシンボル(「帝都東京の門」)として、鉄鋼をふんだんに使った重厚な永代橋に対して、白鬚橋は予算を浮かしてアーチ部分にトラスを使ったため。

橋の軽量強靭化、中央部分はアーチ状、両サイドはなだらかなトラス形式美しいフォルムが実現したのです。

 

 

桜 橋   台東区今戸と墨田区向島の間に架かる、隅田川唯一の歩行者専用橋「桜橋」です。

橋名は両岸の隅田公園が都内指折りの桜の名所であることに由来しています。

西詰は北に行くと“招き猫発祥の地”今戸神社、南に行くと“池波正太郎生誕の地”待乳山聖天。

橋の袂にある水門は山谷堀のもので、現在は暗渠化され上部は公園になっています。

江戸時代はお金持ちが小さな船で、この堀を通り吉原へ通っていたそうです。

東詰に広がるのは向島の料亭街,とはいえ料亭はエクスペンシヴで、おいそれと立ち入ることなど能わず。

でも料亭街にありながらも気の置けない食べ物屋さんが、ひっそりと小径の陰に佇んでいたりします。

西詰も東詰も、落ち着いた下町情緒が味わえる大人の“橋”…それが桜橋なのです。

言問橋は直線ののっぺりした水色の橋ですが、その一つ川下に赤い色で一際目立つ吾妻橋があります。

 

 

言問橋     形式:3徑間鋼ゲルバー桁橋

橋長:238.7m  橋幅:22.0m  架設年月:昭和3年2月  

言問橋は、昭和3年、震災復興橋梁の一つとして架けられた。吾妻橋と白鬚橋との間にあって、水戸街道を渡す橋である。

この橋ができるまで、向島と今戸を結ぶのは渡し舟であって、竹屋の渡しなどと呼ばれていた。

荷風の小説「隅田川」は、その渡しを効果的な舞台設定に使っている。言問橋という名から、人は雅な世界のイメージを思い浮かべるかもしれない。だが現実にこの名を冠せられた橋は無骨な姿をしている。

川端康成は隅田川に新たにかけられた橋々を評した文の中で、清洲橋を女とすれば言問橋は男だと書いている。

架けられたのは昭和3年。震災復興橋の中では比較的早く作られた、それまで白鬚橋と吾妻橋の間には橋がなく、人々は渡し舟で川を渡った。

竹やの渡しといって、向島の三囲神社と浅草の裏手を結んでいた、荷風散人の小説「すみだ川」の舞台となったところだ、芸者に売られる主人公の恋人はこの渡し舟に乗って浅草側に渡り、そこから日本橋芳町の芸妓街へと向うのである。

向島を南下してきた水戸街道はこの橋を渡ると名を言問通りと変える、道は浅草寺の裏手を行き、鶯谷の線路を跨いで谷中を過り、追分近くで本郷通りに突き当たる。

更にその先を行くと、一葉女史が短い晩年を過した菊坂あたりの下に出る。 

 

吾妻橋   形式:3径間スチールアーチ橋 橋長:150.0m 橋幅:14.6m   架設年月: 昭和5年6月

吾妻橋は安永3年(1774)、隅田川では5番目の橋として架けられました、徳川時代における最後の橋です。当所は単に大川橋と呼ばれていたようですが、本所吾嬬神社への道筋にあるところから、吾妻橋と呼ばれるようになりました。

明治8年には木橋として架け替えられましたが、洪水のために流失、明治20年には日本初の鉄橋として架け替えられます。この橋は、隅田川に架かる風情が絵になったとみえて、当時の錦絵などによく描かれました。

現在の橋は、昭和5年に、震災復興橋梁の一つとして、東京市によってかけられました。

下流の蔵前橋と形がよく似ていますが、蔵前橋には石造のバルコニーがあるのに対してこの橋にはバルコニーがなく、そのかわりに高欄が端から端まで連続しています、

今も昔も、浅草と本所をつなぐ大動脈となっています、震災復興橋梁の一つとして、震災直後の大正13年に着工され、昭和2年に完成しました、上野駅前から東に伸びる通称浅草通りに架かっています。 

 

駒形橋    形式:3径間スチールアーチ橋 橋長: 149.1m 橋幅: 22.0m   架設年月: 昭和2年6月

震災復興橋梁の一つとして、震災直後の大正13年に着工され、昭和2年に完成しました。

上野駅前から東に伸びる通称浅草通りに架かっています、橋名の由来となったのは、浅草川の橋の袂にある駒形堂です。

名のとおり馬頭観音を祀った堂ですが、浅草寺の縁起にある観音像がこのあたりで引き上げられたとする説もあります。

駒形は吉原の名妓高尾と仙台藩主伊達綱宗のロマンスにも縁があります、高尾が読んだ句「君は今駒形あたりほととぎす」は、その世界では有名だそうで、綱宗は吉原で遊んだ後、船で大川を下り、仙台堀の河口にある伊達屋敷に帰っていったのではないかと、下種の詮索をされています、この橋ができるまで、このあたりには、駒形の渡しがありました。 

 

厩 橋   形式:3径間下路式タイドアーチ橋  橋長:151.4m  橋幅: 22.0m   架設年次:昭和4年(1929)以前は渡し舟が運行していて、御厩の渡しと呼ばれていた。

厩橋が初めて架けられたのは明治7年(1974)、財政難の役所にかわって民間人が木橋を作って、民家の資金による賃取橋でした。

それ以前、このあたりには、御厩の渡しというものがありました。近くに幕府の厩舎があったところから、そう呼ばれたといいます。

しかし、船がよく転覆したので、三途の渡しと悪口をたたかれたこともあった由、とまれ新しくできた橋はこの渡しの名を引き継いだわけです、明治20年には、東京市に移管されました、明治26年錬鉄製のトラス橋に架け替えられています。

その橋は、躯体は鉄ながら、床組は木でできており、関東大震災の際に、火災によって大損傷を蒙りました。

現在の橋は、震災復興橋梁の一つとして、昭和4年い架けられたものです。

この優雅な曲線の三連アーチの橋を遠くから見ても、近くから見ても絵になる姿をしています。

隅田川に架かる橋の中で最も美しいという人は多い。

なるほど流れるような線形は変化と調和を醸し出し、どの角度から見ても絵になる。

だが優雅な姿に似ず、橋の骨格は頑丈そのものだ。鉄でできた太い橋柱にはびっしりと鋲が打ってある。

装飾に馬を多く用いているが、これは名称に配慮した愛嬌であろう。

架橋されたのは昭和4年で、震災復興橋のひとつだった。

橋ができたのを契機に、橋から湯島天神下までの間に大きな道路が開かれ、本所と上野広小路とを結ぶようになった、それが現在の春日通りである。 

 

蔵前橋  

 形 式:3径間上路式ソリッドリブアーチ橋   橋長:173.2m  橋幅:22.0m  架設年次: 昭和2年(1927)蔵前橋は、震災復興橋梁の一つとして、昭和2年に架けられました。

徳川時代、この橋のある台東区側は、幕府の米蔵があったところから、蔵前と呼ばれていましたが,橋もその名をとってつけられました。

戦後、両国の国技館が米軍に接収されたために、蔵前橋のたもとに架設の建物が造られ、蔵前国技館と称していました。現在は,都の下水処理施設がたっています。橋の高欄には、様々なレリーフが施されています。

 

 

両国橋  

  形式:3径間ゲルバー鋼板桁橋  橋長:164.5m  橋幅: 24.0m   架設年次:昭和7年11月

当初は単に大橋とよばれていたが、武蔵、下総を結ぶことから両国橋と呼ばれるようになった。

両国橋が最初に架けられたのは寛文元年(1661)、隅田川では千住大橋がかけられてから60数年後のこと2番目の橋でした。

それ以前の明暦3年(1657)の大火により江戸市中の大半が灰燼に帰した教訓を踏まえ、幕府は大規模な江戸改造に取り掛かりますが、

両国橋の架橋はその中核をなす事業でした。最大の目的は避難路の確保だったといわれています。

この橋によって隅田川の東西が結ばれ、東側の本所地区が飛躍的に発展するきっかけとなります。両側の橋詰には広小路が設けられ、芝居小屋などが立ち並ぶ繁華街が形成されていきます。

明治8年には西洋式の木橋に架け替えられ、明治37年には鋼プラットトラス橋として架け替えられました。そのときの橋の一部が亀島川に架かる南高橋として残っています。

現在の橋は震災復興橋梁の一つとして架けられました。言問橋と同様シンプルな構造ですが、橋上バルコニーや高欄などに工夫が見られ、角度によっては絵になる橋です。

この橋ができて以後、本所、深川の発展が始まる、とにかく隅田川の橋の中では歴史も古く、交通上の重要性も格段に大きかったから、この橋にまつわる逸話も多い。

花火と相撲はもっとも華やかな部分である。また橋の袂に設けられた広小路は江戸有数の繁華街となった。

木造橋であったから、徳川時代を通じて何度も落橋し、十回余も架け替えられている。それだけ交通量が激しかったのであろう。

現在の橋は昭和七年に架けられた。初代の橋の位置より50メートルばかり上流にあたる。すっきりとしたデザインで、下から眺めあげると洒落たシルエットに映る。赤く塗られた円形の張出は相撲の土俵をイメージしているそうだ。高欄にも相撲に材料をとった装飾が施されている。

 

新大橋  

 形式:二径間連続斜張橋 橋長:170.0m 橋幅:24.5m 架設年次:昭和51年3月

新大橋が始めて架けられたのは元禄6(1693)年のこと、隅田川では千住大橋、両国橋に続き3番目の橋でした。

これより以前に架けられた両国橋が橋が当時大橋と呼ばれていたことから、それに続くこの橋は新大橋と呼ばれるようになったのでした。

この呼称はそれ以来今日まで用いられています。

明治30年には、わが国ではじめてのトラス型鉄橋として架け替えられました。

震災の際には、隅田川に架かる橋はことごとく大きな損傷をこうむり、いづれも架け替えられることとなしましたが、この橋のみはけなげに生き残り、多くの人命を救った歴史を有しています。

下町の人たちは、この橋を称してお助け橋などと呼んだものです。

現在の橋は昭和51年に作られました。先代のトラス橋も無骨で機能一点張りの橋でしたが、この橋も優雅とはいえないようです、昭和の後半は高度成長末期で、物欲が支配する時代でしたので、橋ひとつ架けるにも、こんなものができあがったのでしょうか。

 

 

清洲橋  

  形式:三径間自碇鋼吊橋  橋長:186.22m

  橋幅:22.0m   架設年月:昭和3年3月

清洲橋は、隅田川に架かる橋の中で、最も姿が優美だといわれる。架けられたのはそう古いことではなく明治以降、、今の姿になったのは昭和初年のことである。

親裁復興橋梁群の目玉として、昭和3年に始めて架設されました。

徳川時代からあった永代橋と並んで、隅田川の河口近くにある橋として、設計段階から特別な思い入れを持たれながら建設されました、そんな背景から、デザインの選択に当たっては、永代橋や外の橋との調和を考えて、帝都の景観にふさわしい特徴をもつように考慮されたのでした。

その結果、帝都の表玄関たる隅田川の第一橋梁永代橋には男性的で勇壮なデザインが施されたに対し、永代橋にはそれと対照的なデザインが施されました、流線型の、どちらかといえば、女性的なイメージです。

このデザインは、ドイツのライン川にかかるケルンの大橋のデザインを取り入れたとされています。

橋のデザインもさることながら、清洲橋は隅田川かこうちかくにあって、眺めのよいことでも定評があります。橋そのものというより、この橋からの眺めのよさが、東京百系に取り入れられているほどです。

深川の清住と日本橋の中洲を結ぶところから清洲橋と名付けられた、中洲の先を進むと道は北上して靖国通りをまたぎ、入谷の鬼子母神辺で昭和通りに合流する。

また、清澄の先はまっすぐ東へ延び、扇橋を過ぎて砂町辺で荒川の土手に突き当たる。この橋を通る道は東京の下町を貫通する大通りなのである。

橋のやや上流には小名木川が流れ込んでいて、その河口近くに万年橋が架かっている。

この橋を北に渡り切ると、その先に芭蕉庵の旧跡がある。今は稲荷の小祠になっていて、狭い敷地の一角に、奥の細道旅立三百周年記念と刻した石が据えられている。 

 

永代橋  

形 式:バランスド鋼タイドアーチ橋  橋:184.7m  橋幅: 22.0m  架設年次:大正15年12月  

最寄交通:地下鉄東西線門前仲町

永代橋が始めて架橋されたのは元禄11(1698)年、隅田川では4番目の橋でした。

江戸の市街化が進み、本所深川地区が発展したことに伴い、江戸府中と墨東を結ぶ橋として、北側に接する新大橋に続いて架けられたものです。

日本橋と深川佐賀町を結ぶこの橋は、深川側にある永代寺からその名をとったようです。

橋の維持には莫大な財政負担があったようで、幕府は橋の維持に手を抜きました。その結果、文化年代には老朽化が進み、文化4年、落橋する事故がおきています。

深川八幡祭の見物に繰り出した群集が橋の上にあふれ、その重みで橋が落ちたのです。

明治8年には様式の木橋に明治30年には鉄橋に架け替えられています、現在の橋は大正15年に架けられました。

震災復興橋梁群の建設に当たって、永代橋は当時隅田川の第一橋梁としての位置を占めていたので、とりわけ慎重にデザインの研究がなされました。

明暦の大火を契機に江戸の都市改造が進み、時代が大きく転換しようとする頃だった。

この橋ができたことによって、深川は日本橋地区と直接繋がり、佐賀町を始めとして、新しい産業とそれに結びついた町人文化が発展する。

深川の象徴である富岡八幡の祭は、永代橋の両側を行きつ戻りつすることで、深川の江戸への結びつきを強調して見せた、現在の永代橋は、震災復興事業の目玉として大正15年に架けられた。

当時は隅田川の第一橋梁として、いわば帝都の門としての象徴的な意味合いを持っていたから、デザインには工夫が凝らされた。この橋はどの角度から見ても絵になる。

特に正面から見るとアーチが強調され、勇壮さを感じさせる、また下からの構図も捨てがたい。 

 

相生橋  

形式:3経間連続鋼床版 プラットトラス橋  

橋長:149.1m 橋幅:36.8m   架設年月: 平成11年11月

相生橋は、隅田川の支川に架かる橋で、佃島と越中島を結んでいます。

明治の初期、東京湾に船を通す目的で、隅田河口の大規模な浚渫が行われましたが、それによって発生した大量の土砂を用いて佃島周辺を埋立て、現在の月島地域の原型が出来上がりました。

相生橋は新たに生じた島を陸地につなぎ、あわせて水道管の導入を目的として架けられたものです。

明治38年のことでした橋は、川の中ほどの砂州を挟んで二つ架けられ、佃島側を大橋、越中島川を小橋と呼んで、二橋相睦みあうところから相生橋と名づけられました。

大正8年には木造のトラス橋として架け替えられましたが、この橋は震災で破壊されました。

昭和5年に、復興橋梁の一とつとして、大橋は7径間鋼桁橋、小橋は5径間鋼桁橋として再架されました。なかなか風情に富んだ橋でした、現在の橋は、平成11年に架けられたものです。 

 

中央大橋  

形式:2経間連続斜張橋  橋長:210.7m 

橋幅:25.0m   架設年月: 平成5年9月

昭和の末から平成の始めにかけ、日本中がバブルに踊っている最中に架けられたもので、時代の空気を色濃く感じさせる橋です。

橋の左岸にはもと、石川島の造船所が立地していましたが、この跡地に大規模な再開発ビル群を建てる計画が進行し、大川端リバーシティプロジェクトなどともてはやされました。

橋は、新たにできた再開発地域を都心に結ぶために作られたものです、石川島に隣接する佃島は、徳川時代からの街並が残る都内でも稀有の下町地域でしたが、

その隣に近代的な超高層ビル群が出現し、そのマンションは億ションなどと呼ばれたものでした。

この国の金権崇拝時代の象徴のような事業だったといえます。

隅田川に架かる橋の多くは、震災復興計画を貫いた古典的な重厚さというものを感じさせるのですが、

この橋は、一種独特な超時代性を感じさせます。

永代橋の袂から隅田川の河口方面を望むと、佃島の先端に高層ビル群が何本も立ち並んでいるのが見える。

通称リバーシティという佃島の一部を再開発して、そこに高層マンション街区を作ったものだ。

今では同じような高層ビルが周辺にも多くたつようになり、隅田川河口からから品川にかけての沿岸域は一大高層ビル群に変貌しつつある。

さながら東京版マンハッタンともいうべきものの出現だ、リバーシティ計画の一環として新たに架けられたもので、佃島には既に佃大橋がかけられていたので、この橋はおまけとして、新しい街のシンボルとしての意味合いを持たされたのだろう。

 

佃大橋  

 

 形式:3径間連続鋼床版箱桁橋  橋長:220.0m  橋幅:25.0m   架設年次:昭和39年8月

佃大橋は、昭和39年8月といいいますから、あの東京オリンピックの直前にかけられました。

ひとつ下流にある勝鬨橋が、幻に終った戦前の東京オリンピックに間に合わせるため、突貫工事で作ったのと同じような背景を有しています。

ただ、勝鬨橋が技術水準の高さとともに、優れたデザイン性を有しているのに対して、この橋はあまり優美であるとはいえません。

高度成長に沸くオリンピック前夜において、東京では地下鉄や高速道路の建設といった公共事業が盛んに行われましたが、それらは多く機能中心主義の思想に導かれ、デザインに考慮を払うということがなかったのです。

この橋は日比谷の帝国劇場の横から発し、明石町から佃島の住吉神社横手に抜ける道路を渡すために架けられたもので、月島・佃島と陸地を結ぶ橋としては、相生橋、勝鬨橋に続く3番目の橋でした。

この橋ができるまでは、徳川時代以来あった佃の渡しが、船による陸地との連絡に活躍していました。

橋は、明石町から隅田川を跨ぐと、そのまま高架の形で月島を横断します。ですから、歩行者は階段を上って橋の上に出なければなりません。持たされたのだろう。

 

勝鬨橋  形式:鉄鋼タイドアーチ 双葉跳開橋 橋長:246.0m 幅員:22.0m・架橋年月:昭和15年6月

勝鬨橋が架けられたのは昭和15年、先の大戦の最中のことです。計画の始まりは明治の末にさかのぼり、工事が着手されたのは昭和8年のことです。

大正の後半から昭和の初期にかけて隅田川の 規模な浚渫が行われ、そこから生じた泥土を用いて晴海や豊洲などの埋立地が現れました。

 この新し生じた島々と都心を結ぶものとして、架橋の必要性が高まっていた結果、この橋が作られたとするのがもっとも納得のゆく説明でしょう。

橋の中央部分の双葉跳開橋と呼ばれる部分は、左右対照の美しい形で2枚の桁が70度の角度に開き、大型船を通過させることができるようになっています。

 最盛期には、年間800回ほど開いたとされますが、昭和43年を最後に開かなくなってしまいました。

今日、この橋を愛する人たちによって、双葉を跳 開させる運動が盛り上がっています。

橋の管理者である東京都では、その声を受けて、近く橋を昔の通りに開かせる研究を行っているそうです。